TSUYAMA
MAGAZINE ふるさと図鑑
津山市城西地区
©岡山県観光連盟
津山市城西地区|城西まちづくり協議会
vol.1
江戸時代からの移ろいが感じられる
情緒あふれる津山市城西地区のまち並み
中国山地を源とし、瀬戸内海に注ぐ吉井川が東西に流れる津山盆地。そこに築かれた近世城下町が、現在の津山市中心市街地だ。大きな戦禍や災害に見舞われなかったこともあり、中心部には数多くの歴史的・文化的資源が残っている。2020(令和2)年、城下町の西部に位置する「城西(じょうさい)地区」が重要伝統的建造物群保存地区(以下「重伝建」)に選定された。江戸時代の面影を残す寺町と、近代の発展とともに変化していった商家町のまち並み。静かに時を重ねてきたノスタルジックな風景が目の前に広がる。
400年の歴史を刻む
鶴山に築いた津山城
津山市の中心市街地は、江戸時代に築かれた城下町の町割りを基盤としている。1603(慶長8)年、本能寺の変で織田信長を守り戦死した森蘭丸の弟、森忠政が美作国18万6500石の領地を与えられた。忠政は吉井川と宮川の合流点を見下ろす「鶴山(つるやま)」を城地に選定。翌年、鶴山を「津山」と改め、築城に着手した。津山城を築くにあたり、徳守神社を現在の城西地区に移して、津山城下の総鎮守とした。
津山城は南側に吉井川が流れ、東側は宮川、西側は藺田川(いだがわ)によって囲まれた天然の要害に位置している。忠政はそれらの河川を外掘とし、また鶴山の周囲には内堀を巡らし、堅固な城郭を完成させた。同時に城下町が整備され、住民の身分によって居住地を区別。城下町の北半分と吉井川沿いに武家地を置き、城下を東西に横断する出雲往来沿いを町人地、東端と西端には社寺地を配して城下町の防備を固めた。
森家は4代で断絶するが、代わりに徳川家康の第2子、結城秀康を祖とする松平家が移り、そのまま明治維新を迎える。津山城は明治の廃城令で建物が壊されたが、2005(平成17)年に本丸の南側に位置する「備中櫓」が復元された。
江戸時代の地割を残しながら
明治時代に大いに発展
城下町の町人地は、津山城を中心に広がる「城下(しろした)地区」、宮川より東の「城東(じょうとう)地区」、藺田川(いだがわ)より西の「城西地区」の3つに分かれており、江戸時代の地割を残しつつ、明治時代以降大いに発展していく。江戸時代の面影をそのまま残した建物が連なる城東地区に対して、城西地区は少し違った趣が感じられる。
「城西地区のまち並みは、時代の移り変わりとともにつくられていったもの」と教えてくれたのは、城西まちづくり協議会の佐々木裕子事務局長。その始まりは1898(明治31)年の中国鉄道(現・JR津山線)津山~岡山駅の開通だった。当時の津山駅は市街地より西側、現在の津山口駅であったため、汽車から降りた人やものは城西の町を通って中心部へ移動する。城西地区が津山の玄関口となったことで多くの人が訪れ、出雲往来沿いは「津山銀座」と呼ばれるほど、商業地としてにぎわった。
当時の繁栄を象徴するかのように1909(明治42)年、西今町に建築されたのが、資産家である土居家の個人銀行「土居銀行津山支店」(現作州民芸館)。ルネッサンス様式を基にしたギリシア神殿風の付け柱や1階外壁の石積み風仕上げは、木造でありながら石造建築のような貫禄。岡山県庁唯一の建築技師であった江川三郎八の設計によるもので、110年以上経った今でも城西のまち並みの中で異彩を放っている。
時代の移ろいを感じる
城西地区のまち並みを歩く
1923(大正12)年に現在の津山駅が開業すると、商業の中心は城下地区へと移っていった。城西地区ではにぎわいを維持するため、藺田川に架かる翁橋を架け替えたり、坪井町にアーケードを設置したり、1937(昭和12)年には大型バスや自動車の通行をスムーズにする目的で家の軒を切って道路の空間を広げる「軒切り」を実施したりと、さまざまな打開策を講じた。が、商業地としての衰退を食い止めることはできなかった。
城西地区は町家一軒あたりの敷地が狭く、寺院や神社に囲まれた土地だったため、大規模な開発や建て替えが簡単にできなかった。そのため、建物が大きく変わることなく、江戸時代から近代にかけての伝統建築がそのまま残っている。また、軒切り事業によって城西地区の特徴でもある短い軒がきれいにそろう外観が生まれた。軒が短いので、道の広さと比較して空がとても広く見える。
日蓮宗の寺院3カ寺が並ぶ「法華通り」を歩く。市街地であるにもかかわらず、周囲には高い建物がない。目の前に広がるのは、江戸時代からほぼ変わっていない景色だ。「ここから見上げると、本当に空が広くて美しいんですよ」と佐々木事務局長。白壁の塀の上には、澄み切った青い空が開けていた。
(2023年4月取材)
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