ふるさとおこしプロジェクト

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ふるさと文庫

#09

ふるさと文庫

BOOKS

『瀬戸内文化誌』

宮本常一 著 八坂書房 刊

「日本海方面から米やニシンを運んで大阪や兵庫へゆく船も、瀬戸内海から日本海沿岸や九州方面へ塩をはこんでいく船もみな瀬戸内海を通ります。そんなとき、もっとも活躍したのは小豆島や塩飽諸島の船方たちでした。そして瀬戸内海沿岸にはたくさんの港が栄えました」

鉄道が発達するよりずっと昔、日本の交通の大動脈だった瀬戸内海。大小あわせ3,000もの島々や内海の沿岸には、古くから文化が開けていました。流通も盛んで、「生魚船」「活船」と呼ばれる船が、大阪・尼崎・妻鹿(兵庫)・下津井など、いくつもあった大きな魚市場に生魚を運んでいました。鎌倉時代、船で運搬された備前焼の屋根瓦が、東大寺の再建に使われたことも。鎌倉から戦国時代にかけて、海賊たちが勢力をふるった時代もありました。

『忘れられた日本人』など数々の名著を遺した民俗学者・宮本常一。山口県周防大島生まれの宮本が、終生のテーマとして取り組んだのが「瀬戸内海」でした。本書『瀬戸内文化誌』は、瀬戸内の歴史、文化、往来、漁業、そして暮らしを見てゆく緻密で壮大な本です。瀬戸内の往来をもう少し追ってみましょう。

江戸中期、藍、たばこ、砂糖、綿などの取引が盛んとなり、瀬戸内海には初期資本主義経済の萌芽が見られたといいます。島々を「木綿船」が行き交い、漁師の妻たちは綿屋から託された綿から糸を紡ぎ、織物に。代償として綿をもらい、自分の好みに織って晴れ着を作ったのだそう。「どこの家にも縞帳というものがあって、それによっていろいろの縞を工夫して、それぞれに似合うた着物を織るのである」 綿の産地、岡山・児島半島などでは、糸を紡ぐことから次第に木綿を織ることも盛んになりました。

島々では、漁業のほか農業も行われていました。海の藻を浜で乾かし、肥料として畑へ入れたり、田畑の作物の風除けに、海岸に松を植えたり。「海のほとりの人たちは長い長い歴史の中で、自分たちの生活や自分たちの環境をよくして、ほんとに住みよい世界にしようと努力してきたといってよいかと思います」

九州や四国の大名にとって、瀬戸内海は参勤交代の通路でもありました。「鞆、下津井、牛窓などもたいてい大名の船の寄稿するところであり、多くの船宿があった。こうした家は屋根を本瓦でふき、壁は白く塗るか、または板瓦を漆喰でとめて壁にしたナマコ壁が多く、それが瀬戸内海の船着場の一つの風景となっている」

ひとの移動、物資の移動。瀬戸内海を往来したさまざまが、人間を、社会を、文化を育みました。その来歴を知れば知るほど、瀬戸内の風景は味わい深くなるのです。

選書・文 スロウな本屋 小倉みゆき

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