MANIWA
MAGAZINE ふるさと図鑑
毎来寺
毎来寺|曹洞宗 板画山 毎来寺
板画で廃寺を復興
参拝者を魅了する「板画寺」
真庭市の旧久世町エリア・目木(めき)地区にある「板画山(はんがさん) 毎来寺(まいらいじ)」は、歴史ある曹洞宗の寺院。郊外の田園地帯にあるこの寺に300点以上展示された板画(はんが)作品を見るため、全国から多くの人が訪れる。
板画を制作するのは、住職の岩垣 正道(いわがき しょうどう)さん。岩垣さんは40年以上にわたり板画制作を続け、寺の襖や国内外で展示会の開催を行なっている。
廃寺復興のために入山
岩垣さんは、1941年(昭和16年)に鳥取県気高町(現 鳥取市)にある曹洞宗の寺院の子として誕生。東京の大学の仏教学部に進学し、卒業後は横浜市の曹洞宗大本山 総持寺(そうじじ)で修行した。その後は東京都大田区の萬福寺を経て、1976年(昭和51年)に知人の僧侶から推薦され、当時無住職となっていた毎来寺の28世住職となり現在に至っている。
岩垣さんは「数年間無住職となっていた毎来寺は、檀家60数軒ほどの小さな荒寺でした。草屋の納屋は傾き、土壁はボロボロで穴が開き、本堂の瓦屋根はガタガタで草や木が生えているありさま。果たしてこの寺で長続きするのか、不安で仕方ありませんでした」と当時のことを振り返る。
毎来寺は室町時代の応永年間に開山された、約600年の歴史がある寺。かつては「米来寺」と表記されており、真庭市久世地区の隣・落合地区の瑞景寺の3世・幸中梵巴(こうちゅうぼんば)によって開かれたと伝わる。阿弥陀如来を御本尊とし、観音堂には行基の作と伝わる千手観音が秘仏として奉安されている。
所在地「目木」の地名は毎来寺(米来寺)に由来し、米来が「メキ」と読みが変わり、目木の字が当てられるようになったという説がある。
原点は「刻経」
板画のおもしろさに夢中に
現在「板画寺」として知られるようになった毎来寺。板画の制作を始めたのはどういった経緯があるのだろうか。岩垣さんの話では、もともと板画が好きだったわけではなかったという。
「小さなころから絵を描くのは好きでした。といっても、油絵がメイン。私は寺の子ですから、将来は画家になろうとは考えていませんでしたが、高校・大学では美術部に所属して油絵に熱中していました。板画は小学校の図工の授業でやった程度で、ほとんど関心はなかったですね」と岩垣さんは語る。
板画制作の原点は、毎来寺の住職となった翌年に始めた、般若心経を板に彫って板画のように紙に摺ることだったという。岩垣さんは写経ならぬ「刻経(こっきょう)」と呼ぶ。
出身地である鳥取の隣県とはいえ、縁もゆかりもない土地の小さな寺の住職となった岩垣さんは、不安な気持ちを落ち着かせるために刻経を始めた。そして新しく住職となった挨拶の品として、刻経を檀家に配ろうと考える。はじめは写経を考えたが、自分らしいものをと考えた結果、刻経を思いついたとのこと。半年ほどかかって完成させたが、出来栄えは納得できるものではなく、刻経を檀家に配る予定は取りやめとなった。
刻経は断念したが、岩垣さんは板を彫って紙に摺ってつくり上げるという作業に面白さを感じ、次第に板画に興味を持つようになっていく。そして1980年(昭和55年)、出身地・気高の浜村温泉にある観音石仏三十三体を板画として制作。約2年をかけて完成させ、1982年(昭和57年)に浜村温泉の長泉寺に板画を奉納した。これが最初の本格的な板画制作となったという。
版画をきっかけに
真庭から世界へ
岩垣さんは独学で板画制作を続け、1984年(昭和59年)から本堂の襖(ふすま)に板画作品の掲示を開始。「もともと荒寺だったので、襖も非常に粗末なものでした。襖を新調するにあたり、ふと、板画を貼ってみてはどうかと思いついた」のだという。
客間に作品を貼り始めたところ客人に大好評となり、最初は客間の8枚のみだった板画展示は、やがて作品が増えて客間を飛び出し、本堂中の襖等に多数の板画作品が貼られるようになった。今では81枚の板画作品が本堂中の襖や壁等に貼られている。更に、1995年(平成7年)、本堂の格天井に60枚の板画を制作。2024年現在、本堂の格天井の板画は122枚にのぼる。
岩垣さんの板画制作が注目され、毎来寺が「板画寺」として知られるようになったきっかけは、1990年(平成2年)にNHKのテレビ番組で取り上げられ、全国放映されたことだという。その後も多数の取材を受けメディアで紹介され、毎来寺へ板画を鑑賞しに全国から人が訪れるようになった。更に、さまざまな企業や団体とのコラボレーションや制作依頼が舞い込むように。ニューヨークやロサンゼルス・ロンドン・ペルーなど、海外でも個展を開催するなど意欲的に活動を行なっていった。
技を持って材を生かし
魂を写しとる
岩垣さんが大きな影響を受けているというのが棟方志功(むなかたしこう)。棟方志功が自らが制作する木版画を“板のいのちを彫る”として「板画」と称したため、棟方志功を敬愛する岩垣さんも同じく自身の木版画を「板画」と表現している。岩垣さんは板画を始める前から棟方志功の作品に感銘を受けており「力強くダイナミックな板画の作風に、大きな感動を覚えた」という。
もともと民藝に興味があった岩垣さんは、1983年(昭和58年)に倉敷民藝協会に入会。そして当時の倉敷民藝館の館長・外村 吉之介(とのむら きちのすけ)と面会し、棟方志功の作品を頂いたのだという。さらに外村は岩垣さんの作品を「棟方志功以来の感動」と賛辞を送った。この出来事はとても励みになったと岩垣さんは話す。
板画の原板に使う木材は朴(ホオ)が多く、他には厚さ6mmほどのシナベニヤも使う。朴はしなやかで柔らかい材質。そのため細やかな表現ができる。一方、シナベニヤは硬めの材質なので細やかな表現は難しいが、安価で流通量が多いので手に入りやすいのがメリットだという。
板画の制作は下絵を描くところから始まり、下絵が完成したら原板に貼り、下絵に沿って彫刻刀で彫り進める。掘り終わったら原板に刷毛で墨汁を塗り、その上から紙をかぶせ、バレンでこすって摺り上げていく。
作品に使う紙は、岩垣さんの故郷・気高町の隣にある青谷町の名産である「因州和紙」を使うことが多いという。また近年は同じ真庭市久世地区で生産される「樫西和紙」も使用している。
文字や文章から
アイデアを生み出す
岩垣さんは、言葉や文章からインスピレーションを感じて作品を生み出している。「仏語や禅語・お経などをはじめ、俳句や和歌・詩などの字を読んだとき、頭の中に絵がポッと浮かんでくることがあるんです。そうしたものを板画の作品にしています」と岩垣さんは語る。
近年は横文字を入れたり、裏彩色を用いて彩り豊かな作品をつくるなど、独創的な板画を追求している。
また岩垣さんの作品づくりのこだわりとして、板画を摺るのは原則として1回のみ。板画は原板があれば何度でも摺って作品が生み出せるのが特徴だが、岩垣さんは作品として形になった1枚のみを作品としている。
板画を摺る作業は想像以上に重労働。大きな作品が多く、墨だけでも重ね塗りを行い、一度墨を塗ると乾く前にこすらなければならないので、スピード勝負でもある。バレンでこする作業も力が必要だ。
岩垣さんは「ちゃんと摺り上がった最初の1枚を作品とするのは、年齢による体力面の問題も理由にあります。そのいっぽうでフーフーといいながらやっと1枚の作品が摺り上がると、摺るときの疲労が吹き飛ぶほど本当にうれしいのです。だからこそ、最初の1枚を大事にしています」と笑顔で語る。
独創性を追求した
自分にしかできない地域貢献を
板画によって県北の田舎にある小さな寺に大勢の人が訪れるようになった毎来寺。自身の創作活動によって地域貢献ができていれば何より嬉しく光栄だという。
また「寺おこし」の一環として、岩垣さんは寺の山号を「仲應山(ちゅおうざん)」から「板画山(はんがさん)」へ改称した。
岩垣さんは今後、地元・真庭市をテーマにした作品をつくりたいと語る。過去に真庭市の風景を題材にした作品を制作し、今、改めて自身で自由なテーマを見いだし、真庭市の魅力を表す作品づくりを行いたいと意欲を燃やしている。
「シンプルな中でいかに表現をしていくか」。こまごまとした作品より、シンプルな作品の方が表現の幅が広がり楽しさを感じるという岩垣さん。80歳を超えた現在も溢れるアイデアとともに、日々積極的に独創的な板画作品を生み出し続ける。
(2024年3月取材)
- 不在の場合がありますので、見学希望の際は数日前に連絡をお願いします
- 拝観料は無料ですが、ご参拝くださいますようご案内申し上げます(志納は自由です)
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